(1994年11月発行「風雲去来人馬」より)


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第2章 政策課題と産別闘争の歩み


第3節 優先雇用の協定化から朝日分会結成へ 1973年~1978年
「安全弁」 〝産業予備軍〟としての日雇い労働者
73年頃から大きな問題としてクローズアップされてきたのが、日雇い労働者の本採用化を求める闘いである。
日雇い労働者達は、雇用期間の定めもなく不安定な状態におかれていた。既に労働者供給事業という形で日雇い運転手の労働組合が存在する事はしたが、多くの日雇いの闘いの中でこうした自運労とか新運転の組合は無力な存在となっていた。三生千島や大進の闘いでは会社側に積極的に協力し、会社側の「入替要求」という名の解雇攻撃に応じてきた。
会社にとっては日雇い労働者の存在は、生コン市況の好不調の波にあわせて最小限の本勤と忙しい時の日雇いの増員という形で労働力の調達を可能にする〝安全弁〟である。常時調達可能な〝産業予備軍〟として存在している事で本勤の労働条件をおさえこんでいく手段でもあった。身分が不安定な為についつい会社の言いなりに規制のない長時間労働、休憩時間そっちのけのピストン輸送、他人の嫌がる現場への配車を強いられる。組合のある所でストが起きれば逆ピケに動員され、スト破りの為の出荷までやらされる。
日雇い運転手が本採化を要求するにはこうしたことの必然的結果である。73年末の一連の闘い-三生千島、神戸宇部、大進運輸、大阪ライオン等の闘いは、その多くが生コン支部の闘いによって勝利をおさめてきたし、それに伴って日雇い運転手の中に全自運の組織拡大が進んでいった。
その一方では権利侵害をうけ争議中の仲間たちや、企業閉鎖攻撃を受け再開にまでこぎつけられなかった闘い、解雇を撤回させながらも和解-退職となった闘い等、職場から閉め出される仲間も続出してくるようになった。関生支部はこれまでにも争議中の生活資金の問題で多くのすぐれた実例を生み出してきた。行商やタクシーのアルバイト、解体修理業、さらには生活保護の適用とか考えつく事は何でもやってきたし、全組合員を対象としたカンパ活動も熱心に取り組んできた。
〝朝日分会〟と優先雇用の統一化/76春闘

闘いの中の知恵というか、新しく考え出されたのは、常に欠員状態のまま日雇い運転手の増員でやりくりしている生コン輸送に、この失職中の運転手達を送り込む事であった。73年頃から権利侵害をうけて争議した分会の解決協定の一項に「不足人員は当面、全自運紹介の日雇い運転手を優先雇用する」旨が確認されるようになった。73年5月の大生、さらに三生千島と徐々に個々の企業との間で優先雇用が協定化されていった。また企業閉鎖をやむなく受け入れた場合や、人員整理、和解退職の場合でも必ず附帯事項として「将来、企業再開(又は人員補充)の場合には当該組合員を無条件に雇用する」旨が協定化された。
1975年は春闘で同盟回答を逆転し、以降の生コン支部主導の賃金・労働条件づくりに着手した年であるが、この年の8月には中小企業8社との間で第一回の「労使協同セミナー」が発足した。今日の独占本位の経済政策の下で、中小企業の安定と、そこで働く労働者の生活向上をはかろうというものである。
このセミナーの中で支部が各企業に申し入れた確認書(案)の第二項には次の一節がある。「一、会社は労働条件の維持・工場に努力し、同業他社の協力の下で生コンクリート業者及び輸送業者全体で共同して雇用責任を負えるよう努力する」という一項である。つまり、一企業の努力だけでなく生コンの同業者の共同雇用責任をとる事の確認である。
それは先ず争議や破倒産で失職中の生コン支部組合員、日雇い運転手を雇用することになって具体化された。
当時の支部大会議事録(75年11回大会)をみても労働者供給事業の認可の有無をめぐり企業や関係各方面から苦情が出ている事がうかがわれ、最初は好スタートではなかったといえる。もっとも生コン支部の場合は職安法でいう「斡旋」に該らず、むしろ雇用の形態は門前雇用であり、その雇用される労働者の労働条件は支部が各企業と締結する労働協約の適用をうけるということである。支部の協約の保障がある事でむしろ従来以上に日雇い運転手の労働条件・権利が前進するようになったといえる。
こうして協定化を実現した各企業へは生コン支部の紹介する日雇い運転手が就業するようになった。日雇い運転手の優先雇用についての個別企業との協定が順調に進むようになると、その翌年76年の春闘では、集団交渉27社との間でついに統一協定化することに成功した。その内容は、
(一) 企業縮小、破倒産、閉鎖によって労働者の債権取得が不可能になった時は、その労働者を優先的に雇用する(但、人員補充が必要な時)
(二) 日々雇用される労働者については生コン支部の推薦する人を雇用する
というものである。(76年5月1日)
生コン支部の分会が組織されている企業であればどこでも、新採用の場合でも、日々雇用の場合でも、生コン支部の組合員を優先的に雇用するという協定である。第一次オイルショック(73年10月)のあおりで、大阪、兵庫だけでも13の生コン工場が倒産、閉鎖に追い込まれていた。操業を続けている企業でも「倒産を招く賃上げか、それとも雇用確保か」という形で実質的に労働条件が切り下げられていった。オイルショックという世界経済を根もとから揺るがす経済変動の中、大企業の生き残り策の下で中小企業の切り捨てが進んでいた。生コン支部はこの業種全体をおそった危機の中で、個々の企業の努力と責任で雇用確保を要求するだけでなく、広く業界全体の力(中小企業の団結で生コン業の産業としての自立)で雇用保障を実現する方向を選択した。

朝日分会の結成/76年8月1日
当時、生コン関係労組の中で組織数トップにおどり出ていたとはいえ(75年大会)、同盟や企業内組合とか一企業に複数の組合が存在していた。にもかかわらず生コン支部との間で「優先雇用協定」が締結されたのである。当然、他の組合は後になって反発してくるが、そういう問題意識も要求すらももっていなかった。ここでも、生コン支部の要求を作り出していく力、実現する力の特色が、如何なく発揮された。
協定成立後、直ちに日々雇用労働者の分会として、16名の仲間で田中分会(後に朝日分会)が結成された。これは76年8月1日の事である。この頃から日雇い運転手の組合への結集、労働条件の整備と共に一種の蔑称であった〝日雇い〟という呼称から次第に自らを〝日々雇用〟と呼ぶようになり、企業に対しても定着させていくようになった事も彼らの組合員としての自覚の高まりによるたまものであった。
朝日分会の結成と並行して、同協定に基づいて各分会、企業に雇用委員がおかれ、それを通して日々の仕事量に応じた人員数が割り出され、朝日分会のセンターへ連絡してきて、分会内で配分していくという方式が出来上がった。日々雇用の形態が増えていくにつれて、今度は新運転や自運労の組合員からも生コン支部へ相談に来るようになった。そして争議団の仲間たちの生活確保の手段としても活用されるようにもなった。というのも、生コン運転手の仕事は8時から4時が定時、祝祭日は休みで、賃金もかなり良くなっていたので、大阪や兵庫の争議団(支部以外も含む)にかなり活用されていた。
また「優先雇用協定」で保障されているため、組合員がオルグに回らなくても相手の方から履歴書持参で相談に来るようになり、逆に増えてくるのを規制する程の活況を呈した。
日々雇用共闘会議の結成/78年4月3日
産別協定に基づく日々雇用労働者の就業上の権利の拡大をふまえ、76年10月の第11回定期大会では「日雇い運転手の組織化」という方針が積極的にうちだされた。77年8月1日には日々雇用3労組(自運労・新運転・阪神運転手)との懇談がもたれ、本採用との格差是正(休憩時間、洗車時間等)はじめ9項目の要求を確認した。その実現のために共同行動、提起協議がとりきめられ、11月からは輸送協議会(直営工場の輸送業者中心の集まり)簡単な説明への要求提出、更にセメント9社、工組、協組に雇用問題等の政策要求申し入れが開始された。12月には日々雇用の4社共闘会議と輸送協議会との交渉が行われ、「洗車・休憩時間、配車についての本勤との差別撤廃をなくすよう努力する」等の確認をとりつけた。
最初は生コン支部だけのとりくみであった日々雇用労働者の本採用化、労働条件獲得の闘いが、関係3労組をも動かして全体の要求へと発展していった。
また4労組の協議・調整を通して日々雇用の就労機会の偏りについても、関係各労組間で是正する事も確認された。これは将に生コン支部の闘いの成果で特定企業で朝日分会に就労機会が偏っていたのを、他労組へその機会を分割していくという相互援助の精神に立つものである。
こうした協同行動の結果、ついに日々雇用共闘会議が結成された。1978年4月3日の事である。構成は関生支部、新産別関西地本、自運労大阪支部、阪神労、自運労京都支部の4労組・5団体であった。
関西生コン輸送協議会へのその第1回の申入事項(78年4月10日)は次のようなものであった。(一)本採用労働者の時間外労働の制限(雇用機会の創出-ワークシェアリング)、(二)日々雇用労働者の賃金、日額15,000円、(三)休職制度の確立-等である。こうして日々雇用労働者の労働条件の拡大・安定等かつてない有利な条件を作りあげることとなった。

 
第4節 賃金・労働条件の統一と政策闘争の前進  1975年~1977年
政策の主体化へ徹底した学習

中小企業8社協定(74年)、政策懇談会(75年8月)という政策課題の取り組みの積み重ねによって、生コン業における賃金・労働条件の統一化と、他方でのセメント・ゼネコンに挟撃された中小生コン業の業界としての自立化に向かって、前進が始まった。
だがこの取り組みは関生支部の内部では最初からすんなりと進んだのではない。内部的に政策課題を自分のものとして消化するのに非常なエネルギーを費やしたのである。
それまでは企業に対して直接要求を出すと言うやり方であり、目の前に要求の対象が存在していた。ところが政策という事になると目の前の相手もさる事ながら、産業界全体をどうするのかとなる。職場の組合員からすれば「要求が通りにくくなったから運動課題を雲の上にまつりあげてしまったのではないか」というようにみえてくるのである。それは組合員が、皮膚感覚では産業政策を理解しにくくなる傾向を生む。この点において、関生内部で政策闘争についての理解のための学習が徹底してなされた。
「政策に目が奪われて、職場での取り組みが弱くなった」という真面目な意見も出されてくるようになった。確かに「中小企業の二面性」だとか「一面共闘」といい、「独占との矛盾で共通性」がるとはいっても、現場で目の当たりにする「オヤジ」というのは相も変わらぬ悪らつな収奪者でしかない。
だが政策闘争の提起は、従来型の運動目標、要求を掲げて徹底して闘う。そしていざとなれば背景資本にまで使用者責任をとらせていくという方式だけでなく、もう一歩闘いの領域を拡げていくということである。現時点からすれば、運動がすんなり前進したようにみえるが、実はその運動の内部や底流では組合員全体が新しい発想を理解することが必要な情況が進んでおり、その理解をふまえ、組合員の力を集中していくための運動を設定することが決定的に重要であった。
生コン支部の良き伝統は「先ず行動ありき」であり、「身体で覚えていく」というものである。それに加えて、自らの行動に確固たる展望を与え、確信を裏づけていく為の学習活動が重要となった。それは政策そのものが、今日のセメント・生コン産業の置かれている位置の中で、要求が実現されていく為の具体的道筋を明らかにするものである以上、当然である。
先ず体当たりで的にぶつかり、学習によって的の本当の姿を知り、再び的をより追いつめていく。行動-学習-行動という活動スタイルは、この時期からより一層拡大していった。

セメント・ゼネコン・行政へ多様な要求/75年11月

75年11月14日、支部は在阪のセメントメーカー各社(三菱、住友、日本、大阪、ツルガ、徳山)および行政(大阪府、兵庫県、京都府、各市)へ申し入れ行動を行った。
セメントメーカーへの申し入れは次のようなものである。(一)年末一時金について、下請会社に対し、誠意ある回答をするよう影響力を行使すること。(二)週休二日制、祝祭日の休日、年末年始休暇の一斉化(12月30日~1月8日)。(三)ステッカー、鉢巻、腕章の自由と洗車場の設置。(四)過積み禁止。(五)生コン関係労働者の雇用完全保障。
行政当局への申し入れ内容も次の如きものである。(一)公共事業での過積み禁止。法律遵守企業への発注。(二)建設会社等による組合活動への干渉・妨害および生コン出荷拒否に対する指導監督。(三)過積車輌の工事現場への出入禁止、洗車場設置・安全施策の指導。(四)労基法・労組法はじめ法律無視企業との取引停止、等である。
中小企業に対しては、生コン業界のセメントおよび背年コンへの従属関係の打破を求め、逆にメーカーに対しては下請生コン業での賃金・労働条件の低下に連動する合理化のしわ寄せを防止して雇用保障を求めていく。そして行政に対しても、ゼネコン・セメントメーカーの不等な干渉への指導監督を求めている。これが生コン支部の要求の基本線である。
11月18日から29日にかけて六波の行動で、合計300人を動員してメーカーはじめゼネコン、行政に対して、申し入れの回答を求めて多様な行動が展開された。

雇用福祉基金制度確立の要求/76春闘

76年2月、通産省が「生コン近代化六項目」を発表した。これが以降の生コン産業の構造改善事業が実施される発端である。「六項目」を発表せざるを得ないような生コン業界の過剰設備と深刻な需要ダウンに陥っており、企業は倒産の危機に直面していた。
中小企業経営者にとっては、一方で倒産、他方で労働攻撃と非常に不安感の高まっていた時期であった。そういう時期に生コン支部が政策懇談会を提起した。
支部としても現在の情勢の厳しさについては企業とも共通の認識に立ってはいたが、それは決して労働組合の側の責任ではない。危機を打開するためには、第一に危機の原因を創ったところである独占資本の責任を追及する事である。第二に中小企業自身が自助努力機能を獲得するために協同組合へ結集し、協組機能を充実させていく事が必要である。この2点が政策要求の柱であった。
そして反独占の立場に立っての労働組合と中小企業との共通点を拡大していく事を提起した。それは結局のところ、セメント独占とゼネコンの2つによって挟撃されている生コン業にとって、業界としての自立を通じて対等取引条件を獲得する事にほかならない。
セメント価格の切り下げ、ゼネコンへの過剰サービスの排除など、独占に対して共同で要求をぶつけ獲得していくことである。
労使の共通した政策課題を追及するためには、何よりも各企業において不当労働行為とか組合潰しをしない事を前提にして良好な労使関係を創るという事である。
こういう事を訴えて中小企業との間に、当時は労働組合も組織されていなかった企業にも呼びかけて、懇談会を精力的に組織していった。
労働組合としては賃上げの要求を出していきながら、それ以上にもっと政策制度的な要求を実現していく方向を打ち出した。76春闘でそのような要求の中心になったのが、「関西生コン労働者福祉雇用基金制度」確立の要求であった。その内容は、(一)近畿二府四県の生コン工場に納入されるセメントについて、各セメント会社がトンあたり100円を拠出して基金とする。(二)その基金を企業破倒産、閉鎖・縮小によって労働債権支払が不可能になった場合とか失業労働者への保障にあてる。(三)構成施設建設への資金援助。あるいは(四)中小企業が銀行融資をうける際の担保能力をつけさせる。そういう意味では、中小企業の基盤強化と労働者の福祉向上という二つの要素をもった要求である。
その他にも厚生年金の負担、掛率を労働者3に対し経営者側を7とする確認。また企業閉鎖に関する協定としては、失業労働者を優先雇用する制度を作る事を実現した。それは初めは全自運所属の日雇い労働者の優先雇用として実現し、後に工業組合との交渉に発展した時には日雇い及び本工労働者も含めて連帯雇用責任を工組が負うというように発展していった。
また倒産に関しても、その可能性が高いのであれば、事前に組合に通知することとし、もし倒産に至った場合、生産手段を組合に譲渡するとかの措置についても協定化を追及した。つまり労働組合による自主管理を可能にする体制づくりであり、一部の企業との間(三光生コン、今の淀川生コン等)で協定化された。
福祉雇用基金の要求については、セメントメーカー各社は一様に基金の拠出を拒否しているが、生コン経営者の側はこれについて「政策問題として取り組み、雇用の安定に関し努力する」旨を確認した。また雇用安定に関しては、日雇い運転手の優先雇用の統一協定として、部分的に実現され始めた。閉鎖に関する協定と合わせ、折からの破倒産の危機状況下で倒産と闘い得る労働組合としての定評を確立した。

政策闘争を集約した「政策パンフ」発表
この7春闘での政策要求闘争の成果を理論化し、提起したものが、11月に発表されたパンフ『政策要求に前進をめざして』(略称・政策パンフ)である。内容は、(一)産業分析に基づく支部の政策要求の特徴、(二)セメント・ゼネコン・行政への要求項目、(三)政策要求闘争の中間総括、等である。単に75年8月の第一回政策懇談会以来の一年半の闘いの到達点についての総括であるだけでなく、今日に至るまでの支部の政策闘争の原型ともいえるパンフであり、現在も尚その教訓や有効性を失ってはいない。
同パンフは76年7月に設置された生コン支部政策委員会(5名)が中心となって作業にあたった。この1号で提起されたのがいわゆる政策課題10項目であるが、それは要約すると次の通りである。
①セメントメーカーの責任による雇用福祉制度の設立
②労働時間の短縮
③賃金・労働条件の統一化
④中小生コン企業への優先受注制度の確立
⑤生コン工場の増設・スクラップについての組合の同意制度の確立
⑥中小企業による共同受注・共同販売の確立
⑦セメント・ゼネコン・商社への過剰サービス反対・適正価格の維持
⑧大手商社による生コン販売への介入排除
⑨自由と民主主義の擁護
⑩建設関係労働者の社会的地位の向上
また優先雇用協定を具体化するものとして日雇い労働者の結集体として、8月には「朝日分会」が結成された。(第四節)
左記の政策パンフの発表であるが、それは単に成果の集大成であるとともに、他方では政策要求という新しい闘争領域への拡大を実現するための支部内部での討論の集約でもあった。76春闘の過程でも、政策要求への無理解から来る様々な偏向も現れたからである。中には相も変わらぬ「打撃一辺倒」論が出てきて、眼前の経営者にのみ高圧的で、その背後の独占資本には目を向けないという傾向もあらわれた。それだけではない。全自運大阪地本の一部と結びついて、政策闘争を「雲の上の交渉」と呼び「政策カブレ」と中傷する傾向も根強く存在した。もっともこの後者の特定セクト的観点からの批判者は、後に生コン支部の政策要求が大々的に前進しその成果が現実のものになってからは何時の間にか「批判」を引っ込めて、政策闘争の熱心な支持者に乗り移っていった。
ともあれ生コン支部の主張する「一面共闘」論は無原則的な経営者へのスリ寄りでは決してない。それは独占資本の支配・重圧をそのままにした中小企業との協調ではなく、独占の支配と共に闘う為の労使関係の民主化である。別の表現をすれば、政策要求による一面共闘の道とは、労働者の権利を確保し労働組合の団結を作ることにより、職場を統一戦線と政治革新の砦として強めていこうとするものである。
30社集交で労使共通の政策行動を確認/76年末闘争
政策・制度要求が前進するにつれて組合の組織化も進んでいった。それにつれて集団交渉への参加も76年末一時金交渉では30社にふくらんでいった。この集交を通じて企業側にはっきりした変化があらわれてきた。従来の様に経営者危機に際して、首切り・「合理化」・低賃金を労働者に強要して危機打開をはかろうとする事が、企業にとっても自殺行為であることが自覚されはじめた。今日の危機が何よりも日本経済の産業構造的矛盾に起因しており、打開の道は政策的なセメント・生コン産業の改革であるという認識が定着した。
30社の回答は以上のような認識に沿ったものである。第一にユーザーとの対等取引条件の確立、共同受注-共同販売体制の確立、雇用基金制度の確立等を中心に企業も行動する。手はじめに良く77年1月末に危機突破大会を開く。第二に年末一時金は一律33万円。第三位各省庁要請活動については30社協同で150万円を拠出する、等である。
この3点目については、労使共同での政策要求活動に対して、経営者側が有休扱いにしたり、資金援助をするという画期的なものである。これは現行労働法では企業が資金供与まで行うと不当労働行為になるという規定があるが、団結の成果として共通の要求を実現するための制度である。労組法での規定は資本が組合を支配・従属せしめるための手段として行うことを制限しているのであり、政策闘争とは根本的に異なるものである。一部共産党からは後に分裂の時期に「資本から援助」云々という批難もあったが、的はずれなものである。
行政・ゼネコン・セメントへの政策行動も徐々に実りをあげていった。自治体は要求を拒否できず「要求の主旨に沿うよう努力する」旨を一様に回答してきた。
ゼネコンも一部(大成建設)を除き、組合活動の制限の撤廃や生コン適正価格維持について同意する回答を得た。セメント各社の対応も前向きで、特にこれまで門前払いの対応に終始してきた小野田も東海運の闘いの進展の中で話し合いに応じてきた事が特徴的である。
「構改にあたり雇用第一義」を確認/77年
77春闘は支部組織の各分野での進出・拡大を反映して、29社の輸送ブロック集交と4社の製造ブロック交渉が並行して進んだ。その他の企業では対角線交渉も行われた。
製造関係の労働者が我々、輸送関係中心の生コン支部に結集してくるようになったきっかけは、両部門間の〝格差〟からであった。生コン支部の果敢な闘いによって輸送は賃金もハイレベルであり、労働条件も安定していた。ところが製造の法の組合は全化同盟であり、会社の言いなりで賃金・労働条件も非常に低く抑えられてきた。これに反発した製造労働者の新たな結集によって製造集交が実現したというのが、77春闘の特徴の一つである。
この製造関係ブロック集交では次のような成果をあげる事ができた。生コン業界としては生コン近代化の為に構造改善事業を推進するという方針であった。これに対し我々としては構改事業というのは結局、労働力を省力化する合理化ではないかという観点から基本的に反対であった。但し我々の要求に誠意ある姿勢を示すのであれば協力する用意があるというものであった。
その要求の第一は構造改革にあたっては雇用を第一義として捉える事である。第二にプラント廃棄の傍らで新増設があるという事は、資本の利潤追求の手段としてスクラップアンドビルドが行われる事であり、それへの抑止力をどのようにしていくかである。第三に工場プラントの廃棄に至った場合でも労働者と事前の協議と合意が必要である事。第四に運送契約の勝手な偏向は雇用と労働条件に直接かかわる事であり組合と事前に一致点をみいだす事、等である。
また生コン業の存立そのものを脅かしている業界の不安定性についても企業の側の努力を明示し確認させていった。生コン市況を圧迫するセメントメーカーによるセメント値上げに反対し、ゼネコンや商社への過剰サービスを排除し、対等取引条件の確立に向けて、業界ともども努力するという事である。そしてこれらの問題については直接雇用主のみならず、工業組合とか協同組合、あるいはセメントメーカーに責任をとらしていくという事から在阪セメントメーカーへも交渉を申し入れ、集中行動を展開した。
この春闘の過程でも「打撃主義」や「最もよく闘う者は孤立する」という「少数派主義」の傾向もいくつかあったが、全体として政策要求を軸に社会的に支持共鳴される運動が展開された。要求づくりの段階でも分会員の意識だけでなく広く職場全体の感情をも吸い上げる事で、職場内多数はの形成を実現した例も生まれた。ライオン分会や箕面分会では未組織の仲間やダンプ、職制までも結集させる事に成功した。
また単に企業だけに限定した闘いだけでは大きな成果の実現は困難という観点から、背後の敵であるセメントメーカー、ゼネコンが中小企業と労働者に犠牲を転嫁している事を社会的に宣伝し、行動を集中した。また春闘の山場にあわせてミキサーパレード、文化祭等多様な催しを開き、家族・未組織・未加盟の労働者をも巻き込んで、支部の政策要求を広く理解してもらう事に成功した。こうして「生コン支部の政策旋風」を巻き起こし、広汎な労働者を生コン支部に結集しうる条件を確立した。
政策闘争の通年化が定着
従来、一時金は企業の言いなりの低額回答で同盟との間に年間臨給方式で決定されてきた。支部結成以来、この年間決定方式を打ち破るための苦しい闘いが73、4年頃まで続けられてきた。73年夏季一時金で同盟を上まわり、年末闘争ではついに当の同盟自身が企業との年間臨給協定を破棄するに至った。
こうして生コン業界の中での影響力において支部が同盟を上まわり、リーダーシップをとるようになると賃金・一時金の決定が生コン支部を軸にして左右されるようになった。そういう中で賃金にかかわるような事項について、年間3場所で、つまり春闘・夏季一時金・年末一時金とエネルギーをとられる事で産業政策にかかわる余裕が少しもないという事を解決しなくてはならなくなった。
賃金問題での支部の決定能力の確立と他方での政策闘争への力の集中という2つの要因を背景にして、支部の従来の「年間3場所方式」について検討がくわえられるようになった。
かくて76年頃から新しい闘争方式として春闘では賃金・一時金闘争、そして政策要求については通年闘争というスタイルが定着し、現在に至っている。もちろん、権利侵害や合理化に対する闘争は文字通り1年365日、「休む暇もなし」に闘われている。この権利侵害での機敏な反撃と幾多の勝利の実例こそ、実は「手痛い目にあった」企業をして政策要求での労使の統一を実現した根拠でもある。
この新しい闘争方式を採用した当時も全自運大阪地本から盛んに「闘争の省略化だ」とか「政策闘争の通年化は労使協調に変質してしまう」という批判がかけられた。支部内部へも持ち込まれてきた論争を克服していく中で、経済要求と政策闘争という2本柱の路線が確立していった。
メーカー直系「阪生会」との懇談会
セメントメーカーへの抗議行動が政策闘争の重点として集中していくようになると、セメント側は視点が直接攻撃をうける事に音を上げはじめた。メーカーの直系工場で組織されている阪生会(直系製造の連合体、現在の(※当時)弥生会の前身)を通じて我々との懇談会の機械が拡大するようになった。これまで全化同盟主導下で製造関係の賃金・労働条件が極端に低かったこの格差を是正するよう努力する事も確認された。
メーカーが労働攻勢に対して、譲歩せざるを得ない状況も生まれてきた。この時期はメーカーも危機に追い込まれていたという情勢も幸いした。生コンがドンドン安売りをするという事はセメントも又、暴落していたのであり、事実大阪セメント等はこの時、倒産しかかっていた。組合に一定の譲歩をしながら、かつ組合とも歩調をあわせて業界秩序を確立したいという、セメント側の意向も強く作用していた。
資本が潰れる寸前にまで追い込まれる危機の時こそ、我々組合側の絶好のチャンスであるという教訓が、今日までひきつがれている。
また輸送関係では12月賃金・労働条件を統一化する事を確認した。企業が対労問題で特に賃金コストの統一を実現する事通して、組合との関係で、業界として一致支持率する条件を創る事で、ひいてはセメント・ゼネコンによる生コン業への犠牲の押しつけと、それによる生コン価格の引き下げを集団的に阻止しうる事を可能にした。この賃金・労働条件の統一化は、以降の製造・専業・バラの賃金政策の基礎となった。

第2章 第5節 生コン近代化計画推進と工組との雇用保障協定
1977年~1979年 に続く

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