(1994年11月発行「風雲去来人馬」より)


連帯労組関西地区生コン支部結成30周年(94年11月)・ 祝賀メッセージ(順不同・敬称当時/祝辞略)
市川 誠     全日本建設運輸連帯労働組合・顧問
土井たか子  衆議院議長
永井孝信    衆議院議員 全日本建設運輸連帯労働組合対策特別委員会委員長
歌川勝巳    全日本交通運輸産業労働組合協議会・議長
旭堂小南陵  参議院議員 護憲リベラルの会
福間和之    日本社会党大阪府本部・委員長
近江巳記夫  衆議院議員 公明党大阪府本部本部長
中川和雄    大阪府知事
西尾正也    大阪市長
古谷佳文    社会党と連帯する大阪労働組合会議・議長
上坂 明     大阪平和人権センター・理事長
中北龍太郎  関生地区生コン支部弁護団 弁護士
松本光宣    大阪広域協組設立準備委員会・委員長
長谷川武久  全日本建設運輸連帯労働組合・中央執行委員長


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第1章 関生支部が生まれた「あの頃」

第1節 生コン支部が生まれた「あの頃」
連帯労組関西地区生コン支部執行委員長 武 建一
〝故郷に錦を飾る〟志で徳之島から大阪へ
私がこの生コン業界にたずさわるようになって今年(94年)で33年になります。その頃は全国で70前後しか工場がないという時代ですが、今日では5千以上の生コン工場があるというまでに成長しています。いま思えば隔世の感があります。
私は1942年(昭和17年)に奄美の徳之島という小さな島で生まれ、中学校を卒業すると同時に家計を支えるためにすぐ仕事に出ました。3年間の丁稚奉公です。朝は6時前から起きて仕事をし、夜は12時頃まで仕事をしていました。
その頃は日本全体が高度成長の波にのった時分で、1960年の後半から61年にかけて運転手がどうしても必要だというので徳之島へも募集に来ました。当時はどこの会社でも地元出身の社員を使って九州の果てまでも人探しに出ていました。それでえらい金儲けになるというので、親の生活の支えが何とか出来るのではないかと思ったわけです。一生懸命に働いて〝故郷に錦を飾ってやろう〟との意気に燃えて、今の三生運送(元の共同組)に入社し、以来ずっとそこ(今は新淀生コン)で働いています。入社してから三年間は〝模範生〟みたいなもので酒も飲まない、煙草も吸わない、その他の遊びはもちろん知りません。仕事一本の毎日を送っていました。会社からよく働くというので表彰されたこともありました。




弱冠20歳の青年時代。
当時、乗務していたハイロ式ミキサー車にて
早朝から深夜まで、工事にあわせて運ぶ毎日
その頃の生コン職場で働いていた人たちは大きく分けて二とおりあります。
一つは運転手不足という事で大型免許をもっている人が多いので自衛隊出身者が多かったこと。この人達は集団教育を身につけ、かつ階級教育をうえつけられているので経営者にとって従順で使いやすいと思われ、大量に雇い入れられました。
もう一つは九州、四国、広島を中心にして田舎の従順な青年を集団的に雇いました。この人達は保守的な農村の出だから従順で団結するとか要求をするという意識の弱い層でした。
こんな人達が多いということから労働は大変なものでした。今でいえば3ヶ月分の仕事を1ヶ月でやってしまう位の長時間労働でした。賃金は「一回走っていくら」の歩合給。その上、お正月三日以外休みは全然ない状態でした。当時、会社が借りた寮で六帖に3~4人、四帖半に2人ぐらいずつ詰め込められたタコ部屋みたいなもので、寮長に私生活まで管理されるわけです。
仕事はまだ星の出ている真っ暗な早朝5時頃に寝ている枕もとでバケツをガンガン叩いて起こされる。社長や職制は「生コンいうのは工事にあわせて運ぶのが仕事よ」という台詞をよく使っていました。つまり現場にコンクリートを流し込む時間に、こちらも車を送り込む。それが早すぎるとミキサー車が遊ぶ事になってしまうし、待ち時間をなくすために出荷も時間を調整して行うというわけです。当時は労働基準法など守られず、工事時間は何の規制もなく早朝から深夜までのくりかえしで、それに合わせて生コンを運び続けました。だからセメントとゼネコンの間で板ばさみになった下請けとして「サービス業の精神や」と追いたてられたわけです。






仲間に対する「解雇事件」が組合に関心を持ち出したきっかけとなった
組合に関心をもちだしたきっかけ
こんな劣悪な状態の毎日だから、入社したら仕事に耐えられず、すぐに退職という人が多かったわけです。そんな中で私は入社して3年間はとにかく仕事に生きがいをもつというやり方で、一生懸命に働きました。
ところがある日、北海道から出てきた自衛隊出身の仲間が首を切られるという事件がおきました。1964年の初出の時に社長や専務が先頭に立ってピケをはり、その人(勝又氏)が会社に入ろうとするのを実力で阻止したのです。それまで私は労働組合の「ロ」の字も知らなかったのですが、この光景を目のあたりにして、どうして遠い北海道から出稼ぎに来ている人をクビにするんだ、暴力をふるって職場から追い出すとは何事だという憤りから労働組合に関心をもつようになりました。
解雇された勝又さんは御用組合をもっと労働者の役に立つ組合にしないといけないと決心して、組合役員の改選の時に営業所長が座っていた組合長に立候補したんです。すると勝又さんに労働者の支持が集まって当選した訳です。
職場の組合長が替わるわけですから会社の方は大変だとなって、つぶしにかかってきました。暴力団・S組が運行管理者という名目で職場に配置されジャックナイフをちらつかせたり、「お前は組合員か」と脅しまわり、一方では分裂攻撃、さらに生コン部門を別会社にしたり、私たちの組合(新労)に対しては賃金査定で差をつけてきたりしました。それでも私達はへこたれず三生運送・佃支部をもちこたえてきました。この勝又さんは当時会社の寮であった佃アパートで寝起きし、「勝又学校」の異名をもつ程、その指導力と影響力にはすごいものがありました。彼は当時、労働者の経済学としてソ連アカデミー発行の「経済学」を寮生に勧め、よく学習会を組織していましたが、「賃金の本質」「剰余価値説」等、何と頭の痛い話ばかりで私などまったく理解できないことばかりでした。そのようなことですので、私なども組合に関わりだした頃はとても近くに寄れず〝小僧扱い〟だった記憶があります。







3名の解雇撤回闘争裁判で組合の全面勝利判決で喜びをかみしめる(1969年9月25日)
生かじりの知識で交渉に出て
生かじりの知識で交渉に出て、それで勝又さんの解雇をめぐって私達の組合の中が大モメにモメている最中の64年7月、全自運三生佃支部の臨時大会で私が教宣部長に選ばれました。まだ〝ひよっ子〟みたいな私でしたが、会社側は私の事を「勝又派の二人」の内の一人としてマークしていた事が後に会社側の「労務日誌」が見つかって分かりました。
その頃私は西淀川区にある佃二丁目の堀井アパートという四帖半に同僚と一緒に住んでいましたが、野菜炒めとソーメンばかり作る自炊生活。そして仕事と組合活動に追われて、慢性的な寝不足状態でいつも目を赤く腫らしているような生活でした。教宣部長をするようになったものだから「えらいこっちゃ、勉強せにゃならん」となって、任務の重さに発奮したわけです。あの頃、西淀川病院の裏手に西淀川労働学校が開設されていて、そこへ通うようになりました。
最初、テキストで価値とか労働の二重性とか学習してもチンプンカンプン、さっぱり分かりませんでした。そんな中で社会の仕組みだとか、労働組合の歴史などを少しずつ知っていくようになりました。そんな生かじりの知識で団交に臨んだりしては、「低賃金は長時間労働を生み、長時間労働は低賃金を生む」という論法をふりまわしたりしました。会社の方は、そんなかけ出しの私なんかは相手にしないで、「お前みたいなチンピラに会社を潰されてたまるか」なんて、その頃はよく言われました。私の職場には組合の活動の面で良き先輩方がいましたが、そういう人達と酒を飲みに行くと決まって組合の話しになってしまいました。そういう立ち飲み酒場も組合の学習の場みたいなものだったわけです。
生コン支部の結成へ/企業の枠をこえた業種別統一司令部
その後、当時の生コン共闘会議を指導していた石井英明氏(故人)が中心になり「生コン業種別の統一司令部を作ろう」という動きが出てきました。三生運送だけでも四つの営業所に別々の支部があって、会社にそこをつけ込まれてどうしても統一対応ができないので、もう一度、個人加盟の原則に立ちかえって関生支部を作ろうという機運が盛り上がってきました。この事では当時、全自運大阪地本で生コン担当であった石井英明氏の事を抜きに考えることはできません。この石井さんは元海員組合出身の船乗りなんで、労働者と話す時、酒をくみ交わしながら実に上手に雰囲気を作る人でしたね。その石井さんが当時私らをつかまえて次のように力説したんです。「今日の各支部にかけられている合理化の手口は皆それぞれ違うんだ。企業や職場の状況を敵もよく分析し巧妙になってきている」という訳です。だから組合の方ではどうしても各支部ごとに分断されて各個撃破されてしまうし、それぞれの「お家の事情」で物を見てしまう為に敵の攻撃のねらい-一番弱い所、隙のある所から叩いて行って他の所にも波及させてるというような事が見抜けない。企業の枠を乗りこえた運動が発展しにくいという弱さをもっていました。その弱さを克服するためにはどうするのかとなって、私達には「統一した指導機関や決定機関をもっていない」、それから作っていこうという事になり、この経過をたどり、生コン支部ができるきっかけとなりました。







76年、支部旗びらきで歌を披露する武委員長(当時・書記長)
支部結成準備委員長にかつがれて

時は1965年の6月。関生支部結成準備会が発足して、その委員長に年も若い私が選ばれました。経験もある先輩の方も沢山いましたが、年も若く元気だけが取り得の私に一遍経験を積ませて勉強させてみよう、というつもりだったのではないでしょうか。その前の年に三生佃の役員をやった事すら初めてという私にはとても大それたことでした。こうして4ヶ月後の65年10月17日、関西地区生コン支部が結成されました。その時、集まったのは5分会183名です。こんな小さい組織が83年の最盛時には3500名の組織に成長しているのをみると、組合を初めて作った頃の苦労が想いかえされて、隔世の感に絶えません。
結成大会の初めのほうで私が「結成大会挨拶文」を作って読み上げる事になったのですが、これを作るのにも大変苦労しました。当時、私はキューバのチェ・ゲバラやカストロ首相みたいな生き方に共感を覚え、その人達の本をよく愛読し、この「挨拶文」を書くのにこれらの本を何遍もひっくり返して引用したり参考にしました。でもなかなかうまく行かずに三日三晩もロクに寝ずに苦しみました。
今となってはなつかしい思い出ですが、この時に選ばれた支部の初期役員の中には副委員長に谷岡洋さん(三生和歌山)や西井政一さん(現・千代田生コン社長)などの名前がみうけられます。

クビを切られて口惜しい想い出も
支部を結成してからも活動は決して順調とはいえず大変なものでした。特に私は委員長といってもやはり実際面では未熟でしたから失敗もあり、とにかく無我夢中でした。皆からは「佃だけと違うんやで、関生全体の委員長なんやで」とよくいわれ、冷や汗をかきどうしの毎日でした。
この頃から私は仕事よりも組合活動に力を入れるというように変わって行きました。仕事をしに会社に来ているのか、組合活動をしに来ているのか、さっぱり分からないという事で会社から差別されたり嫌がらせをうけました。
何しろ専従者が一人もいない小さな組合で、職場から急に「団交をもつから」と電話が飛びこんできたら、仕事より優先してすぐにその職場へ入らなくてはならない。昼も夜もそうです。こんな風に活動を始めてすぐの10月19日に私は首を切られました。そのちょっと前に食事内容の改善を要求し「所長とトラブルをおこした」首を切られた人がいてその人を支援すること、そしてアメリカ帝国主義によるベトナム人民への侵略戦争に抗議する為、当時総評が呼びかけた「10・21」国際連帯行動にストライキでたちあがる。この二つの目的でストを打ったというのが首切りの理由でした。この三生解雇撤回闘争はその後69年7月3日に大阪地裁で「職場復帰」「解雇期間中の賃金支払」の判決が下り、その後会社を追い込んで70年1月21日に原職復帰を果たしました。
この時つらかったのはアルバイトや行商をやって生活を支えた事です。私は大阪地本の専従活動に専念しながら単産オルグ活動につくというのが任務でしたが、辛かったのは私個人の生活の事ではなく、田舎の徳之島の家族への送金ができなくなった事でした。
クビを切られた事を徳之島にいる母親に手紙を書いて、「悪い事をした訳ではありません、正しい事をしたからクビを切られました」ということを説明しました。すると母親は私が首を刃物で斬りつけられたのかと思ってびっくりしたというんです。もっともその後は解雇撤回闘争をつづけている間中、今度は母親の方から手紙で応援しつづけてくれました。
何が口惜しかったかといえば私の妹の事です。私と違って出来が良くて何とか大学へまで行って欲しいと思って、それまでは一定金額の仕送りをしていました。それが一円も送れんようになって、妹は大学をあきらめた訳です。
それで、その頃の胸の中は憎しみでガーッとなっていました。「金で全部が解決すると思うなよ。一切すべて元の状態にせえよ」とタンカの一つも切りたい位でした。









1976.10.13 第12回支部定期大会で(大正区民ホール)
組合をつくろうと思った初心にかえって
こんな風に生まれたばかりの生コン支部はヨチヨチ歩きをはじめました。結成して初めの7年間は一進一退の歴史でした。というより後退のくりかえしという状態でした。
流れが反転したのは1973年春闘からの集団交渉方式を採用し、75年には中小企業主導の産業政策を発表してから大きな発展をとげるわけです。
最後に強調しておきたい事は、組合が一番苦しい時期、運動がどうしても思うように進まないという時期には原点に立ちかえって考えようという事です。原点というのは、一番初めに組合を作ろうと決心したあの頃の気持です。会社からいじめられたり苦しい思いをした時、組合を作らんともうどう仕様もないと思った、その時の気持ちに立ちかえろうという事です。
そうする事で、今の状況の厳しさにたじろいでしまったり、目先の欲にくらんでしまうという事もなくなるだろうと思います。
関西地区生コン支部の30年間の歴史も初めから淡々とした道ではなく、多くの先輩の方達が流した血と汗で、その足で踏み固めて来た道であります。支部に結集する皆さんもその事を肝に銘じ、組合を作らなくてはと思ったその時の初心を大事にして、これからの関生支部の歴史を創っていってほしいと思います。    (1994年8月)
 
第2節 セメント・生コン産業の誕生と下請の構造化
-70年代中期までの産業情勢
日本のセメント産業

日本のセメント産業は、1870年(明治3年)に工部省が設置され、富国強兵を目的とする殖産興業政策の推進によってもたされた。
繊維・ガラスなどとならんでセメントはいち早く、工部省技術官・宇都宮三郎により、深川製造所が建設され1875年5月19日、国内での製造に成功した。1880年、「工場払下げ概則」の制定で殖産興業政策の転換をはかり、官営工場の払い下げを始める。かくして、深川工作分局セメント工場は1884年、浅野総一郎に払下げられ、浅野工場となった。セメント工業の起源は、当時の近代工業として典型的な発生をみせている。
その後、1914年からの第一次世界大戦を通じ、セメント産業は発展したが日華事変(1937年)勃発を契機に第二次世界大戦終了まで、長い統制経済に突入していく。戦時下の衰退を経て、セメント産業も復興し、1950年の統制撤廃と朝鮮戦争勃発を契機に復興期に入った。生産が戦前水準に達したのは、1952年(クリンカ生産680万トン)であった。以後、セメント産業は日本経済の高度成長と技術革新を背景に、かつてない成長をみた。
セメント産業は、第四次発展期(1954~65年)で急成長を迎え、石炭から重油へとエネルギー転換のもと生産規模の大型化、生コンの普及、そしてこれに表裏してバラ輸送が発達。60年代中頃には供給過多産業となった。1965年の大不況以後、55ヶ月間に及ぶ戦後最長期の「いざなぎ景気」で安定を取り戻したセメント産業は、「列島改造景気」により1973年、セメント生産高7729万トンとアメリカを抜き、ソ連につぐ世界第2位のセメント生産国になった。

現場打ちから生コンへ-生コン産業の始まり
生コン産業は比較的新しい産業であり、最初はアメリカで1910年代(大正時代)に機械でコンクリートを製造するという形で始まった。日本では戦後の産業で1949年、東京イワキ生コンの創業からである。ちなみに大阪での始まりは1953年(昭和28年)の大阪セメント佃工場である。
日本に初めて生コンの製法が導入された当時、建設業では大量の労働者を吸収しており、人間の手で現場でコンクリートを打つという方法が中心であった。この49年の生コン製法の導入-機械でのセメントと砂利等の練り-の当座は、現場打ちか生コンかのいずれかを採用するかで葛藤があったが、現場打ちの方が高品質のものが出来るという事もあって、結局その後も現場打ちが主流であった。
こうして創業後、しばらくは生コン工場は増える事なく、10年余たった60年の工場数は全国でわずか70工場で、その大半がセメントメーカー直系の工場であった。
しかし、60年代に入って日本経済は世界でもまれな高度成長を謳歌し始めた。朝鮮戦争(1950~53)の特需で日本経済は配線の痛手から立ち直り、50年代後半から本格的な重化学工業の確立をめざして大規模な設備投資に乗り出した。「投資が投資を呼ぶ」という投資ブーム、民間資本による工場・設備の建設ラッシュ、そして行政による産業の社会基盤の整備-電気・ガス・水道から港湾・道路・橋・ダム・住宅の建設も相まって空前の建設ラッシュが始まった。
その頃、今後急速に高まるであろうコンクリート需要を見込んでセメント・生コン業界に画期的な車が生まれた。ハイロという強制撹拌式の車、いわゆるミキサー車である。又、今まで建設業に吸収されていた労働力はどんどん製造業の方へシフトして行き、慢性的な人手不足になり、コンクリートの現場打ちも姿を消していった。こうしたことを主要因として機械で練る生コンの需要が高まってきた。
大手セメントメーカーによる生コン業への乗りだし
時を移さず大手セメントメーカー、特に日本セメント、小野田セメント、少し遅れて三菱鉱業セメントなどが生コン製造に乗り出した。セメントの産地である石灰鉱山からセメント工場を経て、生産されたセメントは貨車や大型タンカーで輸送されてくる。特に大量輸送が可能なタンカーと結ぶ為に沿岸にサイロが作られ、そこに生コンプラントが併設され、出来上がった生コンはミキサー車で建設現場へピストン輸送される。こうして産地から現場まで一貫した生産-輸送行程が作られ、生コンクリートという賛成した商品の形をとってユーザー(最終消費者)の手に届けられるというシステムが確立された。大阪市内の海岸通りに生コン工場が林立したのも丁度この頃であった。
生コン工場数の変遷を時系列で見てみよう。
1955年には12工場、60年でも70工場、65年になると692工場へと5年間で10倍の伸びとなっている。関西地区生コン支部が結成されたのもこの年であり、急増する生コン業での労働問題がようやくクローズアップされはじめた時期である。そして、70年には1602工場、特に67年から70年までは毎年500工場の増加である。75年には2849、80年には5026工場にまで大きく成長している。
この45年間の流れを見ると60年代の初頭までは全国でも100たらずで、一つの産業としても形をなしていない。先述したように日本での生コン業の定着にあたってはセメント会社が技術・設備を最初に導入した。自社のセメントをより多く販売する為に生コン工場を時分で作って、生コンの形で建設業の方に供給していくという形をとったのである。従って当初は(60年頃)は生コン業の9割がセメントあるいはセメント販売店の直系工場であった。ところが、60年代後半からの生コン工場の急増の過程では、メーカーや販売店から離れて独立系の生コン工場が増えてきた。折からの大型公共投資ラッシュの中で建設資材=生コンへの需要増大によって、中小都市でセメント販売業・骨材業・土建業から生コン業界への進出がはじまりだした。
小規模プラントの乱立とセメントによる下請の構造化

70年代に入ってからミキサー車を3台から5台しか保有していない小規模プラントが輩出した。
生コン産業に中小企業が多いのは、その商品である生コンクリートの特質に負うところが大である。製造後1時間半程(ミキサー車で練りながら運んでも)すれば凝固しはじめるという商品特性の為、ストックが利かず基本的に受注産業である。そして輸送距離が限られている為、自ずと一定のエリアの中に限定されてしまう。さらに、天候に左右されるという致命的弱点もある。だから生コン業は必然的に一つ一つの企業が小規模にならざるをえない。しかも需要を安定的に確保しようとすればどうしても、都市周辺に集中せざるを得ないという特質をもっている。
工場の乱立、しかも中小零細な規模の工場の乱立の原因は以上のような商品特性だけではない。生コン業の上にそびえ立つセメント産業の側の事情がある。
セメント生コン業が受注生産であるという事、書いて紙上であるという事は、売る側にとっては「お客様は神様でデスす」なのである。どういうサービスをつけるか、少しでも品質を欲するか、他より安く売るか、という事が売り手(セメント)の側の競争を左右してしまう。
セメントにとっては自社の製品をどれだけ多く、確実に売るのか、そして売り先を時分のコントロールの下におくのか、という問題になってくる。しかもセメントは粉のままでは殆ど商売にならない。セメントがどのような商品の形をとってユーザー(消費者)の手にわたっていくかを示す数字にセメントの転換率というのがある。
セメントの販売高に占めるそれぞれの売り先の比率の事である。生コン向け販売高の比率は60年はわずか8.6%にすぎなかった。以後65年は30%、70年は50%、75年は60%と増加をみせ、現在は約70%である。実にセメントの7割近くが生コンに売られているのであり、逆にいえば生コンとして売らなければセメント販売は成り立たないのである。
こうしたことからセメントメーカーにとって生コン業を、丸ごと自らの支配の下におく事、下請化する事は至上命題となってくる。その際、他社のセメントシェアをくいちぎり自社の販路を拡張するのに手っ取り早い手段は、一つでも多くの生コン工場を自己の傘下におさめる事である。生コンの操業率が26%しかないという過当競争(79年)、そして現在では17%台という極めて低い操業率=過当競争の背景にはセメント各社のシェア競争があり、その結果としての生コンプラントの新増設・乱立状態がある。

<産地から現場まで>の一貫工程/ワンセットのセメント・生コン産業
生コン業の発展にともなって中小の独立系の生コン企業・工場が増加した事をさして、何か「独立系の生コン工場が増えてきた」かのように把える見方がある。「80年当時はセメントの直系生コンはもう2割を切って・・・・・セメントが育てた生コン産業は今ではセメントから手を離れた所に来ていると言えます」という見解である。引用した見解はいずれも連帯労組が主催した「第一回建設生コン全国交流会」(1998年4月)での通産省(当時)窯業課長であるW氏の講演の一部である。
確かに生コン企業の大多数(約8割)はセメント資本から独立した法人であり、資金的にも独立している。とはいえセメントと生コンの両産業の関係は<産地から現場まで一貫した生産-輸送工程>を形づくっている。セメント産業にとって生コン産業というのは構造的に組み込んだ下請産業であり、或る意味ではセメント・生コン産業という形でセット化されて成立している。
そしてこのセット化された工程の中でセメント産業は大規模装置産業であり、<鉱山-セメント工場-タンカーまたは貨車での輸送-サービスステーション(SS)>という工程はいずれも機械化工程である。最終工程であるミキサー車による運搬(生コン製造-建設現場)のみが労働集約部門である。
大型化は商品特質、エリアの点で不可能であり、仕事の性格上からも納入時間がふん単位で指定されている。「工事にあわせて運ぶのが仕事」(生コンの親方の常套句)である以上、配車から運行管理に至まで極めて労務管理的色彩の濃い部門が生コン運輸の特徴である。





当時のハイロ式ミキサー車
輸送費の圧縮こそ利潤の源泉

生コンの販売価格面からみても同様である。生コンの価格は<原材料(セメント・骨材等)+経費+輸送費+他>で決定される。ここで「輸送費」とあるのは生コンでは往々にして製造と輸送とが分離されて別々の会社になっているからである。
生コンの売り先は主としてゼネコン(建設独占)である。小規模資本の生コンがゼネコンを相手にまわして販売価格では勝負にならず、「買い手市場」という事もあり買い叩かれざるを得ない。
販売価格の総額があらかじめ安く抑えられているのに対して、左記の価格決定式で原材料費の半分以上を占めるセメントの比率は全体の総額の約27%である。こんな大きい比重をもつセメントの仕入れ値はこれ又、22社(当時)のセメント会社によって独占価格が維持されているのである。
原材料のセメント価格は据え置きもしくは吊り上げられ、他方で販売価格はゼネコンによって安く抑えられている。生コン製造業者にとって「うま味」を引き出せるのは、唯一、「輸送費」のコストダウンだけである。
輸送単価の切り下げにとどまらず、ミキサー車を「遊ばせ」ない為に過積載の強要や輸送回数のアップと、労務管理の強化によって輸送コストを実質的に切り下げていく。操業率を上げる為には持込車(個人償却制)や日雇運転手の導入で労働基準法であろうと何であろうと無視して休憩も何もない長時間過密労働へかりたてる。使用者責任を回避するためには輸送会社のさらに下請を導入する。いわゆる親方制である。
「輸送費」の圧縮はとどのつまり、セメント・生コン産業の製造工程の最終部門である生コンの建築現場への搬入にたずさわる輸送労働者に対する搾取と労働強化以外の何物でもない。巨額の資本蓄積と経常利益を一人占めするセメント独占資本と、その膝にとりすがって利益のおこぼれに預かろうとする生コンの親方(社長)達の栄華は全て最も下積みの生コン業に従事する労働者達の苦役の上に成り立っている。

輸送は「企業存立を左右する業務」

生コン産業における資本規模がことごとく中小資本である事はすでに述べた。2度の石油ショックに見舞われた70年代末期には中小企業協同組合方の適用をうけんが為に、セメント直系生コン工場の殆どが企業分割等の方法で形だけ「中小企業」に鞍替えしてからは尚更である。
しかし、生コン産業における中小資本は決して言葉どおりの「スモールビジネス(小企業)」ではあり得ない。先に構造化された下請と表現したが、生コン産業を産業ぐるみセメント産業の下に従属させている。そして重層的な支配構造(セメント-生コン製造-輸送-親方・持込)の最下層に運転手が位置している。
しかもセメントと生コンとの関係(転換率70%)からも、生コンクリートにして売らない限りセメントの販売はおぼつかないのが現状である。生コンの輸送は他の製品の輸送と違って、それは原料を別の工場に運びこんだり、あるいは市場に陳列するための完成品を移動したりするようなものとは明らかに違っている。
それは建設現場に流し込んで初めてコンクリート製品となる。輸送の行程が実は完成品を世に送り出す前の製造工程の一部でもある。
この生産過程に組み込まれたトラック運輸の一形態である生コン運輸の特質については支部30年の闘争の歴史の中で地労委決定の中にも記された画期的な一文がある。支部結成後の〝創世紀〟とでもいうべき時期に闘われた大豊運輸闘争での大阪地労委命令(72年7月1日)がそれである。
同命令は指摘する。
「運輸部門は、企業の存立を左右する重要な業務(であり)・・・・別個の企業に担当させる場合には・・・・自己に従属させる必要があり・・・・」
「運送業務に伴う危険と労務管理上のわずらわしさを回避することだけを目的として設立した運送会社」
生コン輸送部門が(上はセメントを頂点とした)重層支配の末端であり、かつ重要業務である事、形式上は別会社とされている事を指摘した労働委員会の判断であり、今日もこの規定は生き続けている。



(次のページ)につづく→「第3節 産別闘争の追及と政策闘争」


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