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戦前の「大阪労働学校」のゆかりの地を探索を探索する(14)

   著:本山 美彦 ( 大阪労働学校・アソシエ 学長 )


■賀川豊彦に心酔し 

 在野の「大ぼやき屋」、大宅壮一(1900~70年)は大阪府三島郡富田町に生を受け、旧制茨木中学在学中に賀川豊彦(1888~1960年)に私淑していた。一般的には尋常小学校を出て中等学校へ進むところを、彼は、高等小学校を出てから中等学校へ進んだため、同級生より年長であった。川端康成が三学年上に在籍していた。登下校時に寄った『虎谷』という書店は、川端も利用していた。1918年、中学4年生の時に、「米騒動」に刺激されて、国の政策を批判する演説をぶち、同年に退学処分を受けた。その年、父が死去。同年に専門学校入学者検定試験(通称・専検、当時存在した旧制中学卒業と同等資格)に合格し旧制高等学校入学資格を得る。1919年、第三高等学校(現・京都大学)に入学。三高在学中に茨木中学校で制服に関するストライキが起きたが、背後に壮一の暗躍があったと言われている。

 心酔していた賀川が1921年に携わった川崎造船所の大規模ストライキには、馬上で指揮する賀川の伝令役を務めた。三高在学中の大宅はマルクス主義に傾倒していたという。高校の同じクラスにいた梶井基次郎(1901~32年)とは親友であった。

 三高卒業と同時に結婚し、1922年東京帝国大学(現・東京大学)文学部社会学科に入学。しかし、大学は中退した。授業料滞納による除籍処分であったという。

■「賀川が運動の源」

 「噫々(ああ)賀川豊彦先生」という賀川追悼文がある。

 「明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベスト・テンを選んだ場合、その中に必ず入るのは賀川豊彦である。ベスト・スリーに入るかも知れない」、「現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない」、「私が初めて先生の門をくぐったのは今から40数年前であるが、今の日本で、先生と正反対のような立場に立っているものの間にも、かつて先生の門をくぐったことのある人が数え切れない程いる。近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうる者を一人あげよと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物――、それは賀川豊彦先生である。」

 大宅は、『「無思想人」宣言』において、知識人の「帽子」としての思想を捨てるとともに、宗教についても、「無宗教で生きていくつもりである」と宣言し、「宗教の力、信仰の熱度とともに、イントレラント(非寛容)な性格は原則として高められていくものである。それを抑えていくことが〝共存〟の必須条件である。だが、他宗他派に対して極度にトレラント(寛容)な宗教は、もはや宗教でなくなっている場合が多い。そこで〝共存〟のための最上の条件は、宗教そのものをすてることだということにもなるわけだ」(鱒書房、1956年、131頁)。

■特定思想に立たず

 多くの知識人たちがそうであったように、彼も社会主義、ことにマルクス主義に共感してきたが、戦時下や戦後に多くの知識人たちが時代に迎合して転向・再転向してゆくのを見て、戦後、特定の思想やイデオロギーに立つことを拒否した。戦時下、多くの文化人が戦争協力にかり出されたように、彼もまた、満州やジャワなどに出かけているが、帰国後、1944年から1948年ごろまでの数年間、八幡山で農業を営みつつ、思索を深めていった。

http://d.hatena.ne.jp/kagawa100/20081027/1225061475を参照した)


※私淑(ししゅく)ひそかにその人を師と考えて尊敬し模範として学ぶこと。



  【 くさり9月号より 】

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